マインドフルに手を洗おう

子どもの頃から、耳にタコができるほど言われ続けてきた「手を洗おう」。

あまりにも基本的なので、大人になった今では、当然身についていると思い込んでいましたが、そうでもなかった、と気づいたのが一年ほど前。

“一応”洗ってはいたけれど、感染症の予防になりうる程度の丁寧さはなかった、ということが判明したのでした。

 

マインドフルに手を洗おう
Sascha Westendorp によるpixabyの画像

ちゃんと洗えてる?

で、一生懸命に手洗いを始めたわけですが、次第次第に緊張感が薄れてきた…とも感じる今日この頃です。

そこで、改めてキホンに帰ろう、と思うようになりました。ぺこぱの「時を戻そう」ではないですが、いつでも何度でも、キホンに帰ろうじゃないか、と。

くわえて、マインドフルに手を洗ってみよう、と思ったのです。

そして、これがとても良かったのです。充実感があって、爽やかさを満喫できます。
そう、洗っているのは手の汚れだ毛ではないような…

 

手を洗っているときの心の中

思えば、手を洗うときというのは、何かひとつの行動から次の行動へ移る合い間、切り替えのタイミングが多いもの。

外出から帰ってきて、これからは室内で過ごすというタイミング。トイレから出てきて、これから別のことをするタイミング。

これから料理を始めるときや、掃除でもなんでも、何か作業が終わったとき。

 

となると、手を洗っているときの心の中は、さっきの出来事(既に終わっていること、つまり過去)や、次の予定(まだ起きていないこと、つまり未来)へと飛びがちです。

 

何となく石鹸を泡立てて、何となく手をこすって、なんとなく蛇口をひねって流して、拭いて。習慣的に体が動き、何となく手洗いのプロセスが進むうちに、心の中では、連想が連想を呼び、過去へ未来へ、どんどん飛んでいきます。そうして、文字通り、流れ作業のように手を洗っているという、なかなか雑なことになっていることがしばしばです。(←私のこと)

 

手を洗っているという、今まさに、自分が経験していることには、注意は向きにくいものです。

(あるいは、手順どおりに“正しく”洗えているか?というマニュアル的な面には注意が向いているかもしれませんが…)

 

マインドフルに手を洗おう

マインドフルに手を洗ってみたら

マインドフルに手を洗うという試みに、いわゆるマインドフル瞑想の経験は必要ありません。マインドフル = 今自分が経験していることに全力で集中すること、くらいのイメージをもってみて下さい。

 

手洗いの動作としては、例の“きちんとした洗い方”を参考に、丁寧に洗うだけ。特別に構える必要はありません。ちょっと変えるのは、注意の向け方だけです。

 

 

まず、五感が何を感じているのか注意してみましょう。

 

手のひらが、指先が、石鹸の滑らかさを感じます。よく泡立ったら、泡の弾力を感じるかもしれません。

両手のひらを合わせると、自分の手のひらの大きさを感じます。思っていたより大きいかもしれないし、小さいかもしれません。

指の付け根の骨の固さを感じ、指と爪の間のわずかな段差を感じるかもしれません。

組んだ指と指の間の感覚。

親指の付け根につづく手のひらの内側の丸みを感じます。

手首の内側の皺や、小さな骨の存在を感じ取るかもしれません。

 

石鹼の匂いが鼻に届いて、息とともに体に入ってくるかもしれません。

 

蛇口をひねると、あるいはレバーを押すと、透明な流れが目に入ります。

水の音が聞こえます。

手が水の感触を感じます。冷たいかもしれないし、温いかもしれません。水圧を感じるかもしれません。

石鹸を洗い流しながら、手のひらを動かすときに同時に腕が動いているのを感じるかもしれません。

水を止めるとき、肩に動きを感じるかもしれません。

手の水分を拭きながら、タオルの手触りを感じます。

 

手を洗うための水を、ふんだんに使えることのよろこびが、全身にひろがってゆくかもしれません。

 

ただ手を洗っている僅かな間に、いろんなことに気づきます。

心がさまよわないで、ここに、たしかにいる、そんなひと時です。

 

マインドフルに手を洗おう
Stephanie Alberによるpixabaからの画像

1日に何度もゆたかな時間を

一日に何回手を洗うタイミングがあるでしょう?

その度ごとに、深い注意を向けてみると「今ここ」にいる時間をもつチャンスが増えます。我に返る時間が増えるのです。感染症の予防もできるし、毎日の暮らしのなかでゆとりも味わえます。

 

ためしに、マインドフルに手を洗ってみませんか。

 

 

 

ごきげんよう