昨年の春、久しぶりに法事で実家の家族が集まったときのことです。
お寺の本堂での儀式は滞りなく済み、控えの部屋で一休みしていると、ご住職がご挨拶にみえました。
父の話は長い。そして…
はじめは、故人を偲ぶ話や、お寺の感染症対策のことが話題となり、それぞれに発言をし、聞き、会話のキャッチボールもスムーズでしたが、そのうちに、いつもの通り、父だけが話し続けて会話のボールが回らない、という事態に陥りました。
さすがご住職は、熱心に相槌を打ち、ときに質問も投げかけてくださいましたが、「聞いてもらえる」とゴーサインを貰ったと感じたのでしょうか、父の長口説は止まりそうにありません。
私はハラハラしていました。
(ご住職もお忙しかろうに…ご迷惑をお掛けしてしまう)
(精進落としに予約したお店に、時間通りに到着できなくなってしまう)
(なにより、感染症予防のためにも、今必用のない長口舌はよろしくない)
きっと私は、憤りと困惑を無理やり愛想笑いでまぶしたような、相当にオソロシイ顔をしていたのではないか、と思います。
父の話を聞くのが嫌なのは、一方的で長いということもありますが、その内容が聞きづらいからです。
退職して既に20年になりますが、父の時間は止まったまま。いまだに、現役時代の苦労話を繰り返し語ります。
そこに武勇伝の明るさはなく、優越感とコンプレックスが捩れたような吐露が続きます。
なぜ?私は父の長い話が嫌いなのか
私としては、家族だけの場でそんな話を聞かされるのもつらいのですが、よそ様のいる場でマナーからはみ出した独白が続くのを、恥ずかしいと感じてきました。
いつもなら、そんな独演会に巻き込まれた日には「ホトホト嫌だ」という気持ちを切り替えるのにちょっと努力を要しますが、その日は、なぜ私はこんなにも父の長い話を聞かされることが苦痛なのか、と自分にスポットライトを当ててみました。
今までは、現在の自分を受け入れることが出来ず、昔の”良かった時代”にしがみついている父の姿勢が苦々しく、苛立ちを掻き立てられているのだ、という自覚だけもっていました。
でも、それだけではないのかもしれない…
そして気づきました。
私は、父にもっと自分の話を聴いてほしいと思っているのです。
自分ばかり話さないで!私の話も聴いて!!
そう思っていたのでした。
今まで、父にそう伝えたことがなかったことにも、気づきました。
「よし!次にこんなことがあれば、そう言おう」そう思えました。
そうすると、不思議なことが起きました。
その後、父の話がちょっと短くなってきたのです。まだ何も伝えていないのに。
共感へのグラデーション
あの法事の日から一年以上が経ち、こんどは私自身が、身近なところから、話がうっとうしいという趣旨のクレームを受けてしまいました。たしかに、喋り過ぎているな…という自覚もうっすらもっていたのですが…
父のことを思い出しました。
父があんなに長い話をしていたのは、もっと自分のことを知ってほしい、わかってほしい、という気もちのあらわれだったのかもしれません。
そんな、子どものような欲求が強すぎて、聞いてくれる存在のことにまで、思いやりが及ばなかったのかもしれない。
もしまた、父が延々と昔の話を始めたら、やっぱり楽しくは聞けないように思います。
でも、何も言わずに”気に入らないオーラ”を出すよりは、その時感じる何かを、ちゃんと伝えられそうな気がします。
長い間、ひたすら嫌だと思ってきた父の長い話。
そこには、私自身の姿が映っていました。
ここから、ひとりの人としての父に、共感の小さな波紋がひろがってゆくでしょうか。
今も私がこのような経験をもてるのは、父が生きているお陰です。親子になって51年。やっと、いてくれてありがとう、と思えるようになった、ここ数年です。
